笑う伴奏生活

ハンブルクから愉快な共演者達を御紹介します。

私は2016年5月11日を二度と忘れないだろう。

 この日はドイツ後期ロマン派の異色の作曲家マックス・レーガーが43歳で亡くなってから丁度100周年であった。私はその2日前に43歳になったばかりで、図々しくも僅かな巡り合わせを感じようと電車の中で3月に演奏した彼のチェロ・ソナタの録音を聴きながら、レーガーが自分にとってとても大切な作曲家であるかのような妄想に耽っていた。
 最寄り駅に到着したので、学校で昼間に行われる演奏会の為に用意していたスーツを持って電車を降りた。第2楽章が終わる頃であった。
 駅から100m程歩いていつも長く掛かる信号待ちをしている時に気が付いた。
『鞄を持ってない・・・』
電車を降りる時にスーツだけ持って鞄を置いて来たのだ。しかも鞄には携帯電話と録音機を除く全ての物が入っていた。現金・カードと滞在許可証の入った財布、パスポート、明日の演奏会で弾くフルート・ソナタの伴奏譜と今日一人で勝手に弾いて楽しもうと思っていたレーガーのピアノ曲の楽譜。それに家の鍵まで入っていた。今大家さんご夫婦は休暇で南フランスに行っていて月末まで帰って来ない。
 そこは無人駅だったのでホーム上に設置されたインターホンで隣の駅の係りの女性に鞄を忘れた旨を伝えるが、電車の中には見当たらないと言う。彼女は2時間後にもう一度お電話下さいと言って直通の番号を教えて下さった。
 スーツを持って来る要因となった演奏会でたった3曲だけ伴奏して(しかも全部前日又は当日決定。ふざけんな)電話すると今度は男性が出て、「お気の毒ですが鞄は見つかりません。」と告げられた。もしかすると貴方に幸運が待っている可能性も全く無いとも言い切れはしないので夕方にもう一度お電話下さいと彼は言った。
 さて、どうしたものか。今日中に出てくる可能性はまず無いだろう。となると大家さんに電話して鍵について何か良い案は無いか尋ねなければ。銀行の口座とクレジットカードを止めて、領事館や外人局にもなるべく早く行かなければいけないだろう。ここまでで既に何人かの先生や友人達には本日の大過失を報告。全員が私以上に困惑した表情を見せたのでこっこれは相当マズいことなのだと改めて思った。
 大家さんに折角の休暇に水を差す電話をして事情を話す。彼の言う通りに隣人(幸いにもご在宅であった)に鍵を借りて大家さんの部屋に侵入し、もう一度電話して私の部屋の鍵の在処を聞く。これでもし鞄が出て来なくても一先ず自分の部屋で寝る事は出来る(この鍵を失くしたら本当に終わりだが)。少し心が軽くなった。
 続いて直ぐに銀行へ行って口座とカードを止めてもらう。これまでのところ他人に使用された形跡は無いとの事で、また少し安心した。
 本来なら演奏会のあと夕方のフルートのレッスンまでゆっくりとレーガーのピアノ曲を楽しむつもりであったが全く違う用途に費やさねばならなくなった。兎に角もう一度学校へ行ってレッスンで伴奏をした後、もう一度交通局に電話をして最後の幸運に賭ける事になる。
 期待はしない方が良い。もしダメだった時の落ち込み度数が少し軽くなるから。電話をすると女性が出た。
「今晩は。今日午前中に鞄を電車に忘れまして既に2度お電話しましたが夕方にもう一度お電話下さいとの事でしたのでお電話しました。」
「どのような鞄ですか?」
「黒い肩掛け鞄です。」これを言うのももう3度目だ。
すると今までと違う返答が。
「日本のパスポート入りですか?」
・・・えっ?
もしかして・・・
「はい、ノブエイトウと申します。」
彼女の声に明るさが増したような気がした。
「イトノブエさんね!〇〇ユーロと〇〇円、〇〇ズウォーティ(ポーランドの通貨)も入っていましたね?」
入っていました入っていました!!!
「隣の駅で保管していますから取りに来て下さ~い。」
楽譜が無いまま明日の演奏会の為の練習をする予定だったフルートの学生に30分待ってもらって急いで隣の駅へ。ここでも冷静さを失ってはいけないと自分に言い聞かせた。浮足立って事故に遭ったり、もし違ったりした時に絶望度数が上がらないように。
 駅のホームで先程した様にインターホンで用件を伝えると係の方が迎えに来て下さった。鞄は紛れもなく私の物で内容物も何一つ減っていなかった。係りの男性二人が口を揃えて幸運でしたね~と仰るのでこれは相当喜ばしい事なのだと改めて思った。
 お陰で練習も楽譜を見ながら出来た。事態を知る皆さんに携帯メールで喜びの報告。大家さんを始め皆さんに祝福される。ほんの10分だけだが沢山持って来ていたレーガーのピアノ曲も一人で弾いて、やっぱり素晴らしい作曲家だと再認識した。
 ドイツ後期ロマン派の異色の作曲家マックス・レーガーの没後100周年に当たるこの日、図々しくも私はこの作曲家が自分にとって特別な作曲家であるとの思いを一人で無意味に強くした。